「軍の虐殺で韓国政府に賠償請求 ベトナム戦争、生存者の女性」という記事をみつけました。
この記事は、ベトナム戦争に派遣された韓国軍による民間大量虐殺の生存者の女性が、韓国政府に損害賠償を求めている、という内容です。
いつも何かにつけて日本に謝罪を要求している韓国政府が、賠償請求される側になっていました。
私はこのような大量虐殺があったことも知らなかったので、いろいろと調べてみました。
目次
ベトナム戦争時の韓国軍による大量虐殺
韓国の派兵は1964年9月に医療班やテコンドー教官などの非戦闘先遣部隊が送り込まれました。
翌1964年2月、工兵部隊を中心に2000人を派遣。
戦況の悪化にともない、同年10月には18,500人あまりの戦闘部隊を本格的に投入。
その数は、韓国軍が撤退する1973年3月までに延べ325,517人にのぼり、アメリカに次ぐものでした。
韓国軍戦闘部隊の多くは、ベトナム中部のニントゥアン省からダナン市にかけての国道1号線の主要都市に駐屯していました。
そして、至るところで罪もない民間人の虐殺を繰り返します。
タイビン村虐殺事件
1966年1月23日-2月26日にかけて韓国陸軍首都機械化歩兵師団(猛虎部隊)は、南ベトナムビンディン省タイソン県タイヴィン村の15集落の村民1,200人を虐殺。
ゴダイの虐殺
1966年2月26日、南ベトナムビンディン省タイソン県タイヴィン村アンヴィン集落のゴザイを訪れた、韓国陸軍首都機械化歩兵師団(猛虎部隊)は住民380人を集めると1時間のうちに1人残らず虐殺。
フォンニィ・フォンニャットの虐殺
1968年2月12日、フォンニィ・フォンニャット村を訪れた韓国海兵隊第2海兵師団(青龍部隊)第1大隊は、婦女子を集めると至近距離から銃殺、刺殺し火を付け立ち去った。
ハミの虐殺
2月25日に再び、同じクアンナム省のハミ村で女・老人・子供・135人を虐殺。
3人だけを残して全員殺害された村もありました。
殺害方法は村民を広場に集め、一斉に射撃を加えたり、手榴弾を投げつけたりして実行されました。
実際どのようにして非道な行為が行われたかは、ご自身で確認されたほうがいいと思います。
韓国軍が民間人に対し行ったことは、とても凄惨で不快です。
米兵が撮影した現場の写真も掲載されていますが、男性の私でも見るに堪えません。
ベトナム戦争に韓国軍がなぜ?
韓国軍がベトナム戦争に参戦していたことを、ご存じない方もいらっしゃるかと思います。
どうして韓国軍がベトナム戦争に参戦したかといいますと、じつは「経済」=「お金」のためでした。
当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領【パク・クネ前大統領の父】は、日本が朝鮮戦争で高度経済成長のきっかけをつかんだ事を知っていました。
そして、ベトナム戦争を経済発展のチャンスととらえ、韓国軍戦闘部隊のベトナム派兵を決定したのです。
本当に戦争は恐ろしいものだと思います。
深い傷や悲しみしか残りません。
冒頭の記事の、韓国政府に損害賠償を求めている女性も、当時は7歳だったそうです。
そのときに背負った傷や記憶が、消えることは一生涯ないでしょう。
過去に起こった出来事を変えることはできませんが、未来を変えることは可能です。
韓国は日本に対し、従軍慰安婦問題や徴用工問題などで再三にわたり謝罪を要求してきています。
ベトナムに対して謝罪は?
2013年9月に初訪越した朴槿恵(パク・クネ)前大統領はベトナムのチュオン・タン・サン国家主席と会談しましたが、謝罪の言葉は一切無し。
また2017年11月に文在寅(ムン・ジェイン)大統領も初訪越し、チャン・ダイ・クアン国家主席と会談。
しかし、そこでも謝罪はありませんでした。
アチコチにブロンズ像を拵えるのは勝手ですが、学ぶことも必要なんじゃないでしょうか。
誠意ある対応を見せていただきたいものです。
135人が虐殺されたハミ村には、後々、記念碑が設置されました。
虐殺記念碑(追悼碑)
碑文には、次のように刻まれています。
青龍部隊の兵士が135人を殺した。
ここは血に染まり、砂と骨が入り混じり、家は焼かれ、火に焼かれた死体をアリがかじり、血のにおいが満ち満ちていた。
爆風が吹き抜けると、さらに悲惨だった。
破壊された家では年老いた母や父が呻きながら死に、子どもたちは恐怖におびえた。
逃げた人は銃撃されて死に、子どもは死んだ母親のもとに這って行きお乳を吸った。
もっとひどいのは、戦車で遺体を踏みつぶしたことである。
(…)
過去の戦場はすでに苦痛が和らぎ、韓国人がここを再訪し、恨めしい過去を認め、謝罪した。
そして赦しのうえに、この石碑を建てた。